宗教法人 栃社山 浄土院

宗教法人 栃社山 浄土院 【久米郡】

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浄土宗コラム

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2023/10/01

浄土院住職信宏和尚の法話 「極楽の心地」

  日本には四季があります。私は暑くも寒くもなく、花粉も飛散していない秋が好きです。過ごしやすく、それだけで心が心が軽やかになるのに、心地良い時期は短く、あっという間に寒い冬が来ます。このように思い通りにいかない世界が私たちの生きている世界です。
極楽浄土はどんな心地になる所だろうかと思い、『無量寿経』というお経を読むと次のように説かれていました。
「極楽浄土は覚(さと)りの世界であって、取り立てて努力をしなくても誰もがみな善行(ぜんぎょう)を修めることができ、悪行(あくぎょう)を犯す可能性など毛頭(もうとう)ない」。
お釈迦様が説かれたお言葉です。極楽浄土の菩薩様、先立たれた御先祖様、皆自然と善い行いをされています。争ったり奪い合ったりしていない、悪や苦しみが全く無い場所が極楽浄土です。さぞ心地よい場所だと思います。
先日、私は地元の国道を車で走行していました。追い越しが出来ない対面一車線が続きます。自分の目の前の同じ方向に進んでいた車が右ウインカーを出しました。交差点ではなく、直線の道路を右折しようとしています。しかし対向車は途切れることなく、なかなか右折出来ません。後続車の私も前に進むことが出来ず待たされます。その時、対向車の大きなトラックがライトを点滅させ、右折車に「入れてあげるから曲がりなさい」と合図し徐行しました。私の前の車はトラックの運転手のお陰で右折でき、私も前に進むことが出来ました。トラックと右折車二人の運転手のやりとりでしたが、私はトラック運転手に見えるように手を挙げて「ありがとうございます」と感謝の気持ちを伝えました。するとトラック運転手も私に対して「どういたしまして」と意思を伝えてきました。その瞬間、とても清々(すがすが)しい心地よい感覚がありました。おそらく極楽浄土の心地もこれと同じかそれ以上の感覚だと思います。極楽浄土の菩薩様は譲り合い、拝み合い、讃え合って思いやりに満ちているからです。極楽では常に清々(すがすが)しい思いをしてお過ごしです。生きづらいストレスの多い現代の社会だからこそ大切にしたい思いです。私たちが生きているこの世界でも瞬間だけといわず、なるべく極楽浄土のような心地を体感できるよう、お念佛を申し、先ずは自分から菩薩様のような思いやりの生き方を実践していきたいものです。合掌

2023/08/26

浄土院住職信宏和尚の法話 「菩薩の目線」

 猛烈な暑さが続く中、二つの大きな台風が日本を通過していきました。一つ目の台風は沖縄県の近くに留まり続けました。沖縄の空港では飛行機が発着できない日が続き、台風は九州を北上していきました 。こちらの岡山県にも強い風が吹きました。二つ目の台風は関東の南方の海で発生しました。当初、この台風は岡山県とは関係ないと私は思っていました。しかし、天気予報が日々更新されるにつれ、台風が接近してくる、台風の予報円が岡山県に向かっていることがわかりました。岡山県に最接近する日は8月15日、お盆最中の午後から夜にかけてと知り、私にこんな気持ちが芽生えました。「台風よこっちに来るな。あっちへ行け」。15日の夜は美作市湯郷温泉の河川敷でお盆の施餓鬼法要を控えていたので、自分の都合で自分勝手な思いを抱いていました。そんな時、沖縄県在住の友人から台風接近の注意喚起を促すメールが届きました。一つ目の台風で既に大変な思いをした友人が私を心配する思いやりのあるメールでした。そのメールを読み、はっと気がつきました。自分が菩薩の道を踏み外していたことです。「台風よこっちに来るな。あっちへ行け」は自分さえよければそれでいいという発想で、思いやりのある菩薩の発想とかけ離れています。こんなお釈迦様のお言葉があります。
「彼岸に渡ることを求める人々は、享楽(きょうらく)に害(そこな)われることがない。愚人(ぐにん)は享楽(きょうらく)のために害(そこな)われるが、享楽(きょうらく)を妄執(もうしゅう)するがゆえに愚者(ぐしゃ)は他人を害(そこな)うように自分をも害(そこな)う。」
(意訳)迷いを離れるように生きている人は、自分の執着(しゅうちゃく)に振り回されることはありません、自分の執着に飲み込まれた時、愚かな自分となってしまいます。その結果、他人に対して身と口と心で害を与えてしまい、自分に苦しみが返ってきます。
私は自分の住む場所やお盆の法要という自分の都合に執着しすぎて、他者(他県の人々への思いやりを欠いてしまいました。沖縄県の友人からの思いやりあるメールによって気づかされました。「台風よ、一人も苦しみを与えるな」が菩薩の道を歩む発想であると思います。これからも愚者(ぐしゃ)の自覚、反省の日々をお念仏申す中で過ごしていきます。 合掌

2023/06/01

浄土院住職信宏和尚の法話 「塵(ちり)を払い、垢(あか)を除く」

  NHKの人気番組に『チコちゃんに叱られる!』があります。巨大なおかっぱ頭の5才の女の子チコちゃんがいろいろなクイズを出題してきます。間違えると「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と叱ってきます。私はずっとチコちゃんに叱られてきました。
先日、5月12日の放送を私はボーっと視聴していました。チコちゃんからクイズが出題されます。「学校で教室の掃除をするのはなぜ?」私が何となくつぶやいた答えは、「周利槃陀伽(しゅりはんだか)さんの真似をしている」です。番組で発表された正解は「チューラパンタカみたいになってほしいから」でした。結論から言うと私の答えはほぼ正解でした。初めてこの番組で正解しました。
気になる正解の詳細です。日本の学校で掃除が始まったとされているのは室町時代。当時の学校の役割を担っていたのはお寺。お寺では読み書きの他にお経を通して人の道を説いていました。教材として使われていたのが『根本説一切有部毘奈耶(こんぽんせついっさいうぶびなや)』というお経です。そこには善い行いや教訓などが説かれており、そこにチューラパンタカという人が出てきます。漢字にすると周利槃特(しゅりはんどく)、『阿弥陀経』にはお釈迦様の十大弟子のひとりとして周利槃陀伽(しゅりはんだか)として紹介されています。賢い兄と一緒にお釈迦様の弟子になりましたが、お経を全く覚えられず、落ち込んでいました。落ち込んでいる周利槃陀伽にお釈迦様は布を渡し、声を掛けます。「私は塵を払う、私は垢を除く」と唱えながら、他の修行者の履物を布で浄めるように」と。お釈迦様に言われたとおりに実践するのですが初めはお釈迦様から教えられた言葉を覚えることも難しかったのですが、多くの弟子たちが協力し、お釈迦様の言葉を何度も伝えました。ついに周利槃陀伽はお釈迦様からの言葉を覚え、履物の汚れだけでなく心の汚れを拭(ぬぐ)い去り、覚りを得ました。周利槃陀伽は、毎日掃除しても塵や垢は無くならない。これは心の塵、心の垢と同じ、だから毎日心を磨き続けなければならないのだと気づきました。
「もし人が善いことをしたならば同じことを繰り返すべきである。同じことをしたいと心がけよ。善の積み重ねは幸いをもたらす」(意訳)とお釈迦様は仰せです。「継続は力なり」をやってのけた周利槃陀伽尊者(しゅりはんだかそんじゃ)のエピソードやお釈迦様のお言葉は、日々の草刈り、田畑の仕事、料理、お念仏をする私たちの背中を押してもらえます。自分なりの善を積み重ねてまいりましょう。合掌


2023/04/02

浄土院住職信宏和尚の法話「郷土を想う」

  「球春到来」という野球好きの合言葉があります。プロ野球が開幕する時節がやってきたということです。甲子園球場では高校球児が一足早く郷土を背負って全力プレーをしていました。そして世界でも「ワールドベースボールクラッシク」という野球の世界大会が開かれました。御覧になられたでしょうか。日の丸を背負い、世界の強豪と堂々と戦う姿に、勝敗を越えて感動しました。観戦していて、清々しい気持ちになるのは、相手に対して常に尊敬の念があったからだと思います。日本代表の選手同士はもちろん、相手になった世界各国の選手にも尊敬の念をもって接し、尊敬の念が次から次へと伝わっていくのが見てとれました。互いにけなし合うと、報復でボールのぶつけ合いになってしまいますが、日本代表選手、応援に行った方々もとてもマナーが良く、すごいことだと思いました。特に大谷選手は世界中の人に愛されているのが良くわかりました。技術だけでなく、人柄や立ち居振る舞い、認め合い、讃え合えるからこそ、国境を越えて世界中の人々が大谷選手の人柄に魅了されるのだと思います。本当に良いもの、本物の魅力は国境をも取り払うと感じさせていただきました。
約八百年前にも国境を越えて教えを広めようとした方がいました。法然上人です。当時、岡山県は美作国、京都府は山城国と呼ばれていました。同じ日本ですが国境(今でいう県境)はありました。法然上人は主に山城国、京都でお念仏の御教えを説いておられました。しかし、京都のみにお念仏がいきわたるのは法然上人の本意ではありませんでした。法然上人の本意は、「念仏の修せん所は、貴賤(きせん)を論ぜず、海人(かいにん)漁人(ぎょにん)が苫屋(とまや)までも、みなこれ予(わ)が遺跡(ゆいせき)なるべし」と仰せです。
意味は「お念仏の声する所は身分を問わず、海の近くの漁師たちの質素な家までも、すべて私の遺跡(ゆいせき)とすべきです」となります。お念仏の声する所が我が故郷とされました。法然上人の生まれ故郷は美作国(岡山県)ですが、それとは別に「お念仏の声する所」が故郷なのであります。どの場所からお念仏の声が聞こえてきても、その場所ひとつひとつが法然上人の故郷なのだと法然上人御自身が仰せであります。どうか、みなさまのご自宅が法然上人の故郷となりますようにと、お念仏をお示しくださった法然上人への御恩を忘れずにお念仏申していただきたいと思います。 合掌

2023/03/01

浄土院住職信宏和尚の法話 「報いと救い」

 回転寿司は、自分が注文していない品も見て楽しむことが出来るので好きです。しかし、回っているお寿司にいたずらをし、その様子を撮影して楽しむ人がいるという残念なニュースがありました。その影響で回転寿司店への客足が減り、店側は本来のサービスの在り方を見直す事態になっています。回転寿司は、全員がマナーやルールを守って成り立っていた楽しい仕組みと気づかされました。
お釈迦様は次のように私たちに警鐘を鳴らしています。「自分の幸せだけを求める人々は、笑いながら悪いことをする。しかし、彼らは後に苦しんで泣きながらその報いを受ける」。お釈迦様のお言葉のとおり、軽い気持ちでいたずらした人は、大勢の人々から攻められて苦しんでいることと思います。気をつけたいのは「一部の悪質な人々だけがこのお釈迦様のお言葉に該当する」と決めつけることです。もしかすると自分が知らず知らずのうちに悪いことをしてしまうかもしれないと気に留めてお釈迦様のお言葉に向き合っていただきたいのです。
私自身、子どもの頃、生き物の命を殺めていました。アリを例にすると、アリの巣に水を流し込んだり、爆竹を差し込んだりとひどいものでした。子どもの頃は罪悪感が無く、お釈迦様のお言葉のとおり笑いながら悪さをしていました。しかし命の尊さを知ってから、自分のしてきたことが怖くなりました。今もなお罪悪感を覚えます。しかし、お釈迦様は救いのお言葉も私たちに向けてくださっています。「以前には悪い行いをした人でも、後に善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。雲を離れた月のように」。まずは自分のした悪い行いに向き合い、悔い改め、自分が反対に善い行いをし、つぐなっていくことの大切さを説かれています。生き物の命を粗末にした私ならば、以後、命を尊んでいくことでつぐないとしていくようにと受け止めることが出来ます。「雲を離れた月のように」とありますが、月は西に動き、雲を離れています。私も西方極楽浄土に向かって動けるようにお念仏を申していきたいと思います。 合掌
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